地震学会in鹿児島

執筆:金城亜祐美

日本地震学会2017年秋季大会

10/25から3日間、「かごしま県民交流センター(写真下)」にて地震学会が行われました.

前回のスロー地震研究集会と比べ、規模は三倍ほど大きくなりました. コンサート会場のような大ホール、中規模の中ホール、研修会場のようなスペース2箇所、そしてポスター会場を借りての開催となりました.

 

鹿児島といえば、 桜島!

桜島といえば、 火山!!

火山といえば、 火山性微動などの地震!!!

地震学会に相応しい場所での開催となり、大変心躍る学会出張となりました。 上の写真では、噴煙している桜島の様子が確認できます.

 

学会会場近くでお昼.

学会に行ったのに観光して美味しいのばかり食べてばかりいるのでは〜?と言うお声も聞こえてきそうです。 ちゃんと発表しましたよ〜!

こちらは私のポスター発表時の様子です。 とても楽しそうな写真が撮れました。 たくさんの地震を研究されている先生方・研究者、そして学生さん達とお話しすることが出来、非常に勉強になりました。

 

学会も終了し、沖縄へ帰ろうとしたその時….

「台風の影響で便は欠航」

飛行機の便を変更し、私たちは急遽「桜島一周巡検(台風の影響により強風)」をすることにしました!

 

港からフェリーに乗り15分ほどで桜島へ到着、先生が前日に予約してくれたレンタカー借用の手続きを済まし、いざ出発〜(ものすごく風が強い…風でハンドルを持っていかれる…by中村先生)

最初に向かったのは、「鳥島展望所(からすじまてんぼうしょ)」

約100年前の噴火に伴う溶岩により、かつて一つの島だった烏島。大規模な噴火の様子を感じることができました.

 

次に、「桜島国際火山砂防センター」では、噴火が起こった際の火山灰を誘導する技術および歴史などといった、桜島ならではの防災について展示してある施設へ行きました。

火山灰の処理、火山のある他国へ同じ技術を施している話など、非常に価値のある知識を得ることができました。 それだけでなく、桜島の地質および地形が分かる巨大なジオラマや、桜島内で配置されている地震計および均衡観測計といったかなりマニアックな知識も展示されておりました。

なんと入場料ナシのこちらの施設。桜島へ行く機会がある方には是非!足を運んでいただきたい場所の一つです。

桜島に住む人々、防災に携わる方々、砂防センターの皆様の努力を感じることが出来、大変有意義な時間となりました。(写真はGoogleマップから. センターと桜島の間にある人口くぼみに火山噴出物を流し海へ誘導するしくみ.)

次に向かったのは、「有村溶岩展望所」

手前側の木々と奥側(山側)の木々は、それぞれ異なる年代に成長を始めました。これは、噴火の時期と対応している姿を確認することができました.

黒々とした火山噴出物.

桜島のいたるところに、下写真のような火山からの飛来物などから身を守るシェルターがあちらこちらにありました。写真のような大きい物から、簡易的なものまでたくさんありました.

それにしても風が強すぎる…先生と風にあおられフラフラしながら撮影しました.

 

「道の駅 たるみず」で休憩!

足湯や温泉を楽しみながら、目の前に広がる錦江湾と桜島の壮大な姿を眺められるという絶景スポットで有名な、道の駅たるみずに寄りましたので、いざ、と思いきや、強風で足湯どころか外に出るのも難しかったので建物の中のレストランから撮影.

そこでお昼をとりました. 美味しかったです.

「黒神埋没鳥居」にて.

大正大爆発時の降灰にて2メートルも埋まってしまった鳥居です. 当時の噴火の恐ろしさを体感することができます.

 

レンタカーを借りて最後に回った場所、「湯之平展望所」!

桜島において一般の人が入ることの出来る最高地点であり、絶景スポットであるこの場所でじっくりと桜島を堪能…

見えない… 何も見えない…

大雨、強風でした。

頑張って撮ったのが上の写真. うーん見えない笑

レンタカーを返し、わがまま言って向かった場所が、「桜島ビジターセンター」

ジオパークが展開しているセンターで、桜島の成り立ちから桜島で暮らす人々の生活まで垣間見ることができます. お土産も充実しており、ここに寄らずして桜島観光はありえない!と思わず感じてしまいました.

様々な波形(リアルタイム)の展示(写真下).

火山灰アイス.  これは、火山灰を実際に食べて桜島を感じよう、というアイスー…! ではなくて、バニラ風味に黒糖が混ざったとても美味しいアイスでした. ごちそうさまでした. また食べたいです.

 

鹿児島弁で、「へ」とは、「灰」と意味するのだそう。へー…

帰りのフェリーにて。

さようなら桜島、今度は晴れた日に行きますね。。。

夕食は、お好み焼きで有名な老舗へ. 美味しい食べ物と鹿児島産焼酎は絶品でした!

たくさんの学びを得た今学会では、自身の研究に応用できそうな考えなどに触れることができたり、同時にたくさんの課題も見つけることができたと感じました.

あいにく台風の影響で便は一日遅れで飛ぶことになりましたが、おかげで「強風の中で桜島を観光」するという、本当に貴重な体験をすることができました(笑).

地質学的及び物理地学的観点から桜島を紹介していただき、さらには、風の強い中運転してくれた中村教授に感謝申し上げます. ありがとうございました!

スロー地震研究集会2017

スロー地震研究集会

執筆:金城亜祐美


松山城にて撮影.

 

去る9月19日から3日間、新学術領域研究「スロー地震学」主催による『スロー地震研究集会2017』が愛媛県松山市ホテルマイステイズ松山にて行われました。

学会会場である愛媛県は、まさにスロー地震のファミリーである深部低周波微動や低周波地震が観測されている場所。。。 このような光栄な場所で、そして我が研究対象であるスロー地震についての発表を行うことが出来、心に残る記念すべき日となりました。

今回行われた研究集会は、新学術領域研究対象に採択されて2回目の学会となり、全国各地から約100人を超える研究者や学生が参加しました。 国際学会ということでしたので、国内だけでなく海外からの研究者も参加されておりました。口頭発表やポスター発表の全プログラムは英語で行われました。

 

同研究室からは、中村教授とM1金城亜祐美が参加し、口頭発表を行いました。

中村教授は、「Seasonal variation in tidal response of very low frequency earthquakes in the Ryukyu Trench」というタイトルで発表を行いました。 琉球海溝の超低周波地震に見られる潮汐応答(活動が潮汐に応じて変動する)が季節変化する、その原因は大気と海洋です、という内容の発表をいたしました。

私金城は、「Low Frequency Earthquakes Along the Ryukyu Islands Triggered by Teleseismic Earthquakes」というタイトルでの発表の機会をいただきました。これは遠くで起こった大地震の表面波が沖縄を通過する時、沖縄の地下で低周波地震が誘発する現象についての研究発表です。今回の学会が初めての口頭発表だったこともあり、不安な気持ちを抱えたまま発表当日の朝を迎えました。発表前日まで中村教授による入念な確認をしていただいたおかげで、無事乗り切ることができました。

同じスロー地震の畑にいる方々の発表もたっぷりと聴くことができました。いろんな大学や研究機関で並ならぬ努力をされている研究者の研究内容や、研究者同士の意見交換の様子など、そう簡単に面する機会はありませんので、大変勉強になりました。 発表内容ももちろん分からないこともたくさんあったので、さらなる勉強の必要性を感じずにはいられませんでした。

それだけでなく、同学年の方々の素晴らしい研究結果、様々な研究にまつわるエピソード、そして今後の目標などもお話しすることができ、大変刺激を受けました。

最終日、学会会場が松山城目下で行われていたこともあり、全プログラムを終了した私たちは、松山城へ登城いたしました!

 

松山城前にて.

 

ロープウェイで登っている様子.

私の時間のミスで城内へ入場することは出来ず…(すみません。。。) お城をぐるっと一周し、城壁や石積み、お城から見下ろす風景などを堪能いたしました。 地学系らしく、石積みに使われている岩石の名称や、地形から断層の位置を確認したりなど、大変楽しい時間となりました!

学会を通して得た新しい知識、今後の課題や反省点、そして松山観光の思い出を研究室に持ち帰り今後も精進して参ります!

 

下写真 —— 街中の様子

 

琉球海溝で海底地殻変動観測をしました

沖縄島の南東沖、琉球海溝近くへ、沖縄県水産海洋技術センターの図南丸で名古屋大のグループと海底地殻変動観測に行ってきました。

出航後、糸満の南海岸に沿って走った後、陸から離れます。

トランスデューサのついたポールを下げて海面下に入れたところです。この状態で海底に設置してある海底局と音波を送受信し、音響測距をおこないます。

船内での様子。パソコンで取れたデータの確認をしています。

 

ちょうど台風18号が接近してきたので、残念ながら観測を途中で打ち切って帰ってきました。

 

 

那覇滞在中のフランス人神父が残した記録から推定した1858年の群発地震の発生場所

那覇滞在中のフランス人神父が残した記録から推定した1858年の群発地震の発生場所

  • 背景

100年以上前の地震活動を研究するとき、沖縄では歴史書「球陽」に書かれた過去の地震や津波の記述を探し、それを使って地震の発生場所やマグニチュードを推定してきました。しかし一部の例外的な地震を除いて、「球陽」には、地震があった、という記載だけのことが多く、それから地震の発生場所やマグニチュードを推定するのは不可能でした。さらに、すべての地震活動を「球陽」が記録しているとは限りません。地震があっても記録されていない可能性もあります。またもし「球陽」に記載があったとしても、その記録がどのくらい正確に書かれているのかを判断するには、「球陽」以外の記録と比較することが必要です。しかし琉球王国時代の地震のことを記載した資料は非常に少ないため、比較検討することは困難でした。

 

ところが当時、「球陽」に関わる人々以外に地震の記録を残していた人物がいました。この研究で出てくるフランス人のルイ・ヒュレ神父です。19世紀中期、通商条約または布教を目的としてアメリカ、フランス、オランダの関係者が那覇に滞在していました。ルイ・ヒュレ神父もその一人です。彼は1855年から1862年までの那覇滞在中に定時の気象観測を行う一方、那覇での有感地震に関して克明な記録を残していました。その記録を解析することで、当時の那覇での地震活動の様相がわかってきました。特に1858年は沖縄島付近で群発地震が発生していた時期にあたり、「球陽」にもこの群発地震に関する記述が見られます。しかし「球陽」には有感地震の回数のことしか書かれていないため、群発地震の発生場所や規模を推定できませんでした。一方、ヒュレ神父は揺れの大きさだけでなく、揺れの継続時間や地鳴りの方向まで記録を残していました。私たちはこれらの情報を使って、群発地震の発生場所やマグニチュードを推定することができました。

 

図1 ヒュレ神父の観測地点と沖縄気象台(旧沖縄県立那覇二等測候所、那覇一等測候所、県立那覇測候所、中央気象台付属沖縄測候所、沖縄地方気象台、琉球気象局)の観測点の推移

 

  • 明らかになった1858年ごろの那覇の地震活動

まず、ヒュレ神父が記録に残した揺れの大きさを震度に変換しました。揺れの大きさは強弱を示すさまざまなフランス語で記載されていたので、まず、それを4階級に分けました。次にヒュレ神父の記録には、地震の揺れで建物がきしむ音がした、という記述はあるものの、特に建物や柱が傾いた、といった建物損壊の記述はないため、彼の記録に見られる、これまで経験した中で最大だった、という揺れでも震度は4だったと推定しました。ちなみに琉球王国側の記録では、彼らは当時、那覇市松尾山に木造住宅を作ってもらい、そこに住んでいます。

次に、1858年9月から1859年1月に発生した群発地震(最大震度4)の発生域を推定しました。一連の群発地震の中で、4つの地震では揺れの大きさ(震度3)と継続時間(60~120s)が記録されていました。揺れの大きさと継続時間を理論式と比較して、震度3の地震の震源位置とマグニチュードをそれぞれ、那覇からの距離30~220km、M4.3~6.5と推定しました。また、群発地震の中には揺れに先行して地鳴りが聞こえたものがあり、その地鳴りはすべて北の方角から聞こえてきています。これらのことから震源位置は、①沖縄トラフで発生した、最大M5.5~7.5(距離100 kmの場合)または M8クラス(距離300 kmの場合)の群発地震、②奄美大島付近で発生したM8クラスの群発地震、③沖縄島北部から奄美大島南部の島付近で発生した最大M6.5~7.0(距離50 kmの場合)または M6.5~8.0(距離200 kmの場合)の群発地震、の3候補が挙げられます。

 

図2 ヒュレ神父の記録に基づく那覇での毎月の震度毎の有感回数。

 

これらの候補を過去100年間に発生した地震活動と比較すると、①の沖縄トラフでは1980年に最大M6.4の地震を伴う群発地震活動が起こっています。那覇での震度は2でした。この活動は1858年の群発地震活動より少し小さめですが、1858年の群発地震が1980年の活動より少し東側で発生したか、またはマグニチュードがM6.4よりも大きかったとすれば、那覇での震度とも整合的です。

 

②の地域では、過去にM8.0の地震が起こっている地域なので可能性はありますが、このM8.0の地震は4カ月に及ぶ群発地震ではなかったので、候補としては二番目です。ただし過去100年間に起こったことのないM8地震を伴う群発地震が1858年に奄美大島で起こった可能性は否定できません。

③の地域はそもそも過去大きな群発地震が発生していないので、発生領域の候補としては弱いです。ただし③の地域で起こったことを完全に否定はできません。

 

図3  1858年群発地震の候補となる領域。①沖縄トラフ、②奄美大島、③琉球弧。下の図は1980年に沖縄トラフで起こった群発地震のM-T図。

 

  • 1857~1860年の那覇での年間有感回数は、最近100年間の年間有感回数より多いのか?

ここで忘れてはいけないのは、ヒュレ神父が地震観測を行っていた場所(松尾山)は、沖縄気象台が地震を行っている場所(樋川)よりも地震動増幅率が高い、要するに揺れやすい、ということです。沖縄気象台の地震観測点は約100年前以降、点々と移設されています。1927年以前は那覇市松尾山(ヒュレ神父の観測地点とほぼ同じ)や久茂地といった平野部で、1927年以降は那覇市垣花、天久、樋川といった丘陵地で地震観測が行われています。那覇では、平野部では丘陵地より増幅率が1.7倍大きな値となっています。このことが、1858年の群発地震を含め、フランス人神父の観測した揺れが大きめに出ている要因かもしれません。

また、平野部で揺れが増大するということは、有感地震の回数も増加させる要因になっています。このことを踏まえて1923年以降の有感回数とフランス人神父の記録した有感回数を比較すると、過去100年間の有感回数は1年あたり6.0 ± 4.7回です。フランス人神父の記録した有感回数は群発地震を除くと1年あたり8.8回(群発地震を含めると1年あたり12.9回)です。地盤による有感個数増加の影響を補正すると1年あたり5.3回です。沖縄気象台で観測された有感回数とほぼ同程度になり、1858年ごろも群発地震の時期を除けば最近100年間と特に地震活動が活発だったわけではありません。

 

  • 研究の意義

1858年の群発地震が中部沖縄トラフで起こったとすると、中部沖縄トラフの群発地震活動は、160年間にM6.5以上の地震を最大とする群発地震が4回程度起こっていることがわかります。これは中部沖縄トラフの長期的な地震活動を把握する糸口になります。

また、ヒュレ神父の記録と球陽とでは、群発地震の開始・終了時期が同じであることから、1858年ごろの那覇付近の地震に関する球陽の記録は、かなり正確に記載されていることがわかりました。

さらに、19世紀中期には様々な外国人が那覇に滞在していました。彼らの中にはヒュレ神父のように地震観測をしていた、または日記の中に記録していた者もいたかもしれません。滞在者の残した記録の中に埋もれている地震を拾い出すことで、沖縄での歴史地震研究が進展していくでしょう。

 

研究結果は国際誌Earth, Planets and Spaceで2017年9月6日に掲載されました。

雑誌:Oda, T. and M. Nakamura, Source area of the 1858 earthquake swarm in the central Ryukyu Islands revealed by the observations of Father Louis Furet. Earth, Planets and Space (2017) 69:121. doi 10.1186/s40623-017-0708-1

台湾北部で断層調査をしました

台湾北部へ地中レーダを使った断層調査に行ってきました。

台湾北部は1867年基隆津波に見舞われた地域で、多数の活断層が通っています。今回は、それらの断層を調査するため、地中レーダを使って地表直下の地層の状態を調べました。

活断層は山と平野の間を通っています。急峻な山と湿地帯の平野部に挟まれているため、このあたりの古い家屋は山麓の、ちょうど活断層が通っている線上に集まっています。平野部の中にある民家を伺ったところ、元々山麓に住んでいたのが後から平野部に移転したとのことでした。現在は草地や畑になっていますが、この平野には昔、滑走路がありました。

平野部は標高3m以下の湿地帯で、低い所はほぼ標高0mです。1867年基隆津波の津波堆積物も見つかっています。この付近での基隆津波の遡上高は約4mです。

 

海岸はこんな感じです。サーフィンで有名な海岸で、海水浴客も見られます。日中はあまり人がいませんが、夕方になると大勢の海水浴客がやってきます。観測を行っていた時期には台湾で大規模停電が起こっていましたが、調査現場では特に何も無くお店もエアコンを付けて普通に営業していました(大学関係では緊急停電があったようですが)。場所によっては停電で消えた信号機の代わりに警官が交通整理をしているくらいでした。

 

地中レーダの調査風景です。30度を超える炎天下のなか、調査を行いました。測線に沿ってひたすら地中へ電磁波を送受信して計測をおこないます。

 

近くには温泉が多数あり、観光地となっています。基隆地震のとき、この地域一帯はかなり激しい揺れに遭い(震度6程度)、建物も大部分が倒壊しています。基隆地震の時、この付近にある温泉が地震から数日間、異常な噴出をしたという記録が残されています。

 

JpGU-AGU Joint Meeting 2017へ参加してきました!

2017年5月20日から25日の五日間にかけて千葉県幕張メッセ他会場で行われたJpGU-AGU Joint Meeting 2017へ参加してきました。

今回の大会では、アメリカ地球物理学連合大会との合同セッションとなり、規模も昨年と比べはるかに大きくなりました。

様々な国から、たくさんの大学や企業含む地球科学系の関係者がふるって参加し、千葉海浜幕張メッセが日本で一番熱い場所となった五日間になりました。

 

さて、私たち琉球大学地震研究室からも、二人の院生が参加しましたよ。

こちらのポスターはM2祖慶さんの発表となります。

Detection of tsunami deposits in the east of Taiwan using Ground Penetrating Radar (地中レーダーを用いた台湾東部における津波堆積物層の検出)について発表しました。

彼は、今回が2回目の学会参加となりました。

初参加の時と比べ、だいぶリラックスした表情で挑んでおり、参加者からの質問などにハキハキと受け答えしていましたよ。

参加者に自ら積極的に話しかけにいく姿も見られ、大変立派でありました。

 

M1の金城さんは、Induced Low Frequency Earthquakes Contributed to Teleseismic Events Along the Ryukyu Islands, Okinawa (遠地地震による琉球列島での低周波地震の誘発現象)について発表しました。

遠くで発生した地震の波が沖縄にやってきたとき、低周波の地震を引き起こすのかどうか、についての研究発表です。

発表の一週間前は緊張のあまり眠れなかったそう。しかしながら、本番では、研究者や他大学の学生さんと楽しそうに議論を交わしていましたよ。

ちなみに、彼女は今回の学会に合わせて新しくかりゆしウェアを調達したそうです。

 

中村先生は、Seasonal variation in tidal response of very low frequency earthquakes in the Ryukyu Trench(琉球海溝での超低周波地震の潮汐応答の季節変化)について発表しました。琉球海溝で発生する巨大地震津波のメカニズムを探る上でとても大事な研究です。

先生は、このポスター以外にも、歴史地震についての興味深い研究(Seismicity on Okinawa Island around 1858, estimated from observations by a French missionary)も発表されていました。参加者の皆さんと和気あいあいとお話されている姿が非常に印象的でした。

 

学会の終わりには、昨年度卒業し帰京している門井君を交えての楽しいお開き会となりました。

(*写真: 左から祖慶真也君、金城亜祐美、中村衛先生、門井洋平君)

 

会場も、幕張メッセだけでなく、国際会議場、国際展示場、東京ベイ幕張ホールと、複数の場所で行われました。

口頭発表会場とポスター会場を往復しているだけで、日の終わりには足が棒のようになりヘトヘト…(汗)でしたが、

そんな思い出も、大会参加で得た新たな知識も、(そして発表終わりに研究室のメンバーで飲んだビールの味も)良いお土産となりました。

 

この五日間で得た経験を研究室に持ち帰り、研究に対するエネルギーへと変えて頑張っていきたいと思います。