琉球海溝で海底地殻変動観測をしました

沖縄島の南東沖、琉球海溝近くへ、沖縄県水産海洋技術センターの図南丸で名古屋大のグループと海底地殻変動観測に行ってきました。

出航後、糸満の南海岸に沿って走った後、陸から離れます。

トランスデューサのついたポールを下げて海面下に入れたところです。この状態で海底に設置してある海底局と音波を送受信し、音響測距をおこないます。

船内での様子。パソコンで取れたデータの確認をしています。

 

ちょうど台風18号が接近してきたので、残念ながら観測を途中で打ち切って帰ってきました。

 

 

那覇滞在中のフランス人神父が残した記録から推定した1858年の群発地震の発生場所

那覇滞在中のフランス人神父が残した記録から推定した1858年の群発地震の発生場所

  • 背景

100年以上前の地震活動を研究するとき、沖縄では歴史書「球陽」に書かれた過去の地震や津波の記述を探し、それを使って地震の発生場所やマグニチュードを推定してきました。しかし一部の例外的な地震を除いて、「球陽」には、地震があった、という記載だけのことが多く、それから地震の発生場所やマグニチュードを推定するのは不可能でした。さらに、すべての地震活動を「球陽」が記録しているとは限りません。地震があっても記録されていない可能性もあります。またもし「球陽」に記載があったとしても、その記録がどのくらい正確に書かれているのかを判断するには、「球陽」以外の記録と比較することが必要です。しかし琉球王国時代の地震のことを記載した資料は非常に少ないため、比較検討することは困難でした。

 

ところが当時、「球陽」に関わる人々以外に地震の記録を残していた人物がいました。この研究で出てくるフランス人のルイ・ヒュレ神父です。19世紀中期、通商条約または布教を目的としてアメリカ、フランス、オランダの関係者が那覇に滞在していました。ルイ・ヒュレ神父もその一人です。彼は1855年から1862年までの那覇滞在中に定時の気象観測を行う一方、那覇での有感地震に関して克明な記録を残していました。その記録を解析することで、当時の那覇での地震活動の様相がわかってきました。特に1858年は沖縄島付近で群発地震が発生していた時期にあたり、「球陽」にもこの群発地震に関する記述が見られます。しかし「球陽」には有感地震の回数のことしか書かれていないため、群発地震の発生場所や規模を推定できませんでした。一方、ヒュレ神父は揺れの大きさだけでなく、揺れの継続時間や地鳴りの方向まで記録を残していました。私たちはこれらの情報を使って、群発地震の発生場所やマグニチュードを推定することができました。

 

図1 ヒュレ神父の観測地点と沖縄気象台(旧沖縄県立那覇二等測候所、那覇一等測候所、県立那覇測候所、中央気象台付属沖縄測候所、沖縄地方気象台、琉球気象局)の観測点の推移

 

  • 明らかになった1858年ごろの那覇の地震活動

まず、ヒュレ神父が記録に残した揺れの大きさを震度に変換しました。揺れの大きさは強弱を示すさまざまなフランス語で記載されていたので、まず、それを4階級に分けました。次にヒュレ神父の記録には、地震の揺れで建物がきしむ音がした、という記述はあるものの、特に建物や柱が傾いた、といった建物損壊の記述はないため、彼の記録に見られる、これまで経験した中で最大だった、という揺れでも震度は4だったと推定しました。ちなみに琉球王国側の記録では、彼らは当時、那覇市松尾山に木造住宅を作ってもらい、そこに住んでいます。

次に、1858年9月から1859年1月に発生した群発地震(最大震度4)の発生域を推定しました。一連の群発地震の中で、4つの地震では揺れの大きさ(震度3)と継続時間(60~120s)が記録されていました。揺れの大きさと継続時間を理論式と比較して、震度3の地震の震源位置とマグニチュードをそれぞれ、那覇からの距離30~220km、M4.3~6.5と推定しました。また、群発地震の中には揺れに先行して地鳴りが聞こえたものがあり、その地鳴りはすべて北の方角から聞こえてきています。これらのことから震源位置は、①沖縄トラフで発生した、最大M5.5~7.5(距離100 kmの場合)または M8クラス(距離300 kmの場合)の群発地震、②奄美大島付近で発生したM8クラスの群発地震、③沖縄島北部から奄美大島南部の島付近で発生した最大M6.5~7.0(距離50 kmの場合)または M6.5~8.0(距離200 kmの場合)の群発地震、の3候補が挙げられます。

 

図2 ヒュレ神父の記録に基づく那覇での毎月の震度毎の有感回数。

 

これらの候補を過去100年間に発生した地震活動と比較すると、①の沖縄トラフでは1980年に最大M6.4の地震を伴う群発地震活動が起こっています。那覇での震度は2でした。この活動は1858年の群発地震活動より少し小さめですが、1858年の群発地震が1980年の活動より少し東側で発生したか、またはマグニチュードがM6.4よりも大きかったとすれば、那覇での震度とも整合的です。

 

②の地域では、過去にM8.0の地震が起こっている地域なので可能性はありますが、このM8.0の地震は4カ月に及ぶ群発地震ではなかったので、候補としては二番目です。ただし過去100年間に起こったことのないM8地震を伴う群発地震が1858年に奄美大島で起こった可能性は否定できません。

③の地域はそもそも過去大きな群発地震が発生していないので、発生領域の候補としては弱いです。ただし③の地域で起こったことを完全に否定はできません。

 

図3  1858年群発地震の候補となる領域。①沖縄トラフ、②奄美大島、③琉球弧。下の図は1980年に沖縄トラフで起こった群発地震のM-T図。

 

  • 1857~1860年の那覇での年間有感回数は、最近100年間の年間有感回数より多いのか?

ここで忘れてはいけないのは、ヒュレ神父が地震観測を行っていた場所(松尾山)は、沖縄気象台が地震を行っている場所(樋川)よりも地震動増幅率が高い、要するに揺れやすい、ということです。沖縄気象台の地震観測点は約100年前以降、点々と移設されています。1927年以前は那覇市松尾山(ヒュレ神父の観測地点とほぼ同じ)や久茂地といった平野部で、1927年以降は那覇市垣花、天久、樋川といった丘陵地で地震観測が行われています。那覇では、平野部では丘陵地より増幅率が1.7倍大きな値となっています。このことが、1858年の群発地震を含め、フランス人神父の観測した揺れが大きめに出ている要因かもしれません。

また、平野部で揺れが増大するということは、有感地震の回数も増加させる要因になっています。このことを踏まえて1923年以降の有感回数とフランス人神父の記録した有感回数を比較すると、過去100年間の有感回数は1年あたり6.0 ± 4.7回です。フランス人神父の記録した有感回数は群発地震を除くと1年あたり8.8回(群発地震を含めると1年あたり12.9回)です。地盤による有感個数増加の影響を補正すると1年あたり5.3回です。沖縄気象台で観測された有感回数とほぼ同程度になり、1858年ごろも群発地震の時期を除けば最近100年間と特に地震活動が活発だったわけではありません。

 

  • 研究の意義

1858年の群発地震が中部沖縄トラフで起こったとすると、中部沖縄トラフの群発地震活動は、160年間にM6.5以上の地震を最大とする群発地震が4回程度起こっていることがわかります。これは中部沖縄トラフの長期的な地震活動を把握する糸口になります。

また、ヒュレ神父の記録と球陽とでは、群発地震の開始・終了時期が同じであることから、1858年ごろの那覇付近の地震に関する球陽の記録は、かなり正確に記載されていることがわかりました。

さらに、19世紀中期には様々な外国人が那覇に滞在していました。彼らの中にはヒュレ神父のように地震観測をしていた、または日記の中に記録していた者もいたかもしれません。滞在者の残した記録の中に埋もれている地震を拾い出すことで、沖縄での歴史地震研究が進展していくでしょう。

 

研究結果は国際誌Earth, Planets and Spaceで2017年9月6日に掲載されました。

雑誌:Oda, T. and M. Nakamura, Source area of the 1858 earthquake swarm in the central Ryukyu Islands revealed by the observations of Father Louis Furet. Earth, Planets and Space (2017) 69:121. doi 10.1186/s40623-017-0708-1