○津波襲来時の石垣島南部

 当時、石垣島南部は八重山地域の中心地で、蔵元(行政庁)が置かれていました。しかし津波の襲来によって、石垣島にある蔵元、寺、御嶽や家屋が流されました。役人から百姓まで多くの人が津波に引き流されて命を落とし、ある者は怪我をしたまま泳ぎ、またあるものは木や石、泥土に覆われて頭や手足を怪我し、またある者は丸裸になり、親子、兄弟、夫婦の見分けもつかなくなってしまいました。木につかまって漂流する人もいましたが、船が壊れており、救助に行けません。
 生き残った人たちも再び津波が来ることを恐れ高台に逃げていたので、海岸にいる負傷者を救助できず、また遺体の収容もできませんでした。
 また大津波が発生した3月10日は年貢の搬入期にあたっており、周辺の集落および島々から石垣島南部に多くの人が集まっていました。このため他の地域に住んでいた人も石垣島南部で津波災害に巻き込まれてしまいました。

 生き残った役人は石垣島西部の集落に対し小舟を出させるよう指示を出し、沖を漂流する人の救助にあたらせました。

 津波の翌日、他の島に出かけていて津波被害を逃れた役人たちが石垣島に戻って、各島の被害状況を報告しあい、救助活動に乗り出しました。

 しかし津波で多数の船が破損し、使えなくなっていました。船は島々の流通・情報伝達を担う重要なものでした。船が使えないため首里にある王府への情報伝達が遅れ、そのため王府から八重山へ役人派遣が行われたのが津波発生から2ヶ月後ととても遅くなってしまいました。

 津波直後、石垣島南部の4ヶ村は海岸から離れた文嶺(ブンニ)というところへ村を移すことになりました。しかし、実際には津波の翌年でも4ヶ村のうち2ヶ村は元の敷地に住み、他の2ヶ村だけが徐々に文嶺に移っていました。さらに津波の4年後、文嶺は用水が不便なこと、浜が遠くて御用布を潮晒しするのに不便なこと、浜から遠いと石垣島および他の島から公事で来るのに不便なことから、文嶺には引っ越せないということになりました。そこで村の代表者を集めて投票をおこない、結局元の村の敷地に住むことになりました。

(参考:牧野、1981;大波揚候次第、1998;得能、2000)